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父殺しの後で――探すことをやめることと探し直すことのあいだ――張承志『北方の河』を読む

胡一帆 · 2023.5.11–14

2023年に書いた、まだ未熟な時期の文章です。文芸批評への初期の試みの一つとして残します。

張承志が話題になるとき、作品の議論にはつねに、その人物と経歴への驚嘆がつきまとう。「紅衛兵の発明者」、あるいは「中国式イスラーム原理主義」と結びつけられる張承志は、作家としての彼よりも語られやすい。そこには誤認や好奇の眼差しがあるにせよ、作品を読み、文学史上の位置を測る座標にもなりうる。初期作品に頻出する知識青年の記憶や下放先の風景と、後期作品の主題として噴出する激しい宗教感情は、これらの呼称と興味深く響き合う。「清華大学附属中学の紅衛兵が五十年にわたって追い続けた革命の信念」と、「ジャフリーヤが二百年間守ってきた精神」1が絡み合うとき、私たちはどう彼の文学、あるいは精神世界へ入ればよいか。創作歴を文学史的に考察する道もあるが、答えを先取りして後から前を読む危険がつきまとう。むしろ作品へ直接入り、言葉が作る空間と孔のなかで張承志自身に語らせてみたい。

『北方の河』を選ぶ理由はそこにある。北京の知識青年である主人公「彼」の紅衛兵参加、辺境への下放、大学院受験には自伝的な響きがある。変転する「彼」「お前」という人称と全篇を満たす心理描写は、人が自分の魂を凝視し対話しようとする感覚を生む。この作品は『黒駿馬』などに見られた青春の昂揚と硬質で深い精神を保ちつつ、慣れ親しんだ辺境の叙述に、後の尋根文学に似た問いを注ぐ。知青文学と尋根文学のあいだという曖昧な位置2こそ、両者を結ぶ共同体再建の主題が、一世代の信仰崩壊と精神的治癒から、「個人の自己と民族の大きな自己との正しい関係を発掘し認識する過程……本質的な構築過程」3へと上昇する様子を観察するのに適している。張承志の「草原の孤独な騎手と聖戦者」4という気質は、「理想の堅持と追求を抒情的・発散的に表し」、「厳しい現実に理想の輝きを見出そうとする」文体に現れる。5それは若い読者を強く感染させるだけでなく、「筆は書くのではなく、鮮やかな絵を描き、熱狂する歌を指揮している」かのような、「肉体の内側の欲望」6を暗示する。固定した対象をもたない欲望も、把握し語りかけられる現実の拠り所として、具体的な対象を必要とする。精神的渇望は心に適う現実の資源と結びつき、その資源への信奉に基づく抗争、追求、犠牲のなかで、原初の衝動と崇高な精神的客体がともに開花するのである。

それ自体が「想像の共同体」的な誤認かもしれない。具体的対象が個人の精神では抗しえない現実の衝撃に遭うと、対象の崩壊と再建に伴い、それまで高く掲げられていた精神的渇望にも憂鬱と焦燥が差す。だがそれは共同体の崩壊と再建の空白期に限られるようだ。反復を経るほど対象は内面化され、隠れた姿で主体に捉えられる。渇望の拠り所は現実から精神へ移り、主体とさらに密接に結びつき、その精神の一部となる。清華附中の紅衛兵少年が、まだ曖昧なプロレタリア革命への熱情を宣言書と大字報に託した時代から、文革後に山河と原野を讃え、「一つの血統、一つの風土、一つの創造の力」をもつ壮大な「中国」7を抱擁する時代を経て、ジャフリーヤの殉教の道――「神の道に捧げ、生より死を求める」道――を、「外来のイスラーム教派から次第に中国文化の一つの精髄へと変わっていく」と讃える時代へ。8私たちは、「肉体内部の欲望」に駆られ、崇高な精神的客体を尽きることなく求める張承志を見ている。その姿は文革後の激しく変動する中国人の内面と同型でありながら異質であり、知青文学から尋根文学への転回をつなぐ。

前述のように、『北方の河』は知青文学と尋根文学のあいだに位置する。この区分は後知恵ではあるが、読書の直接の感触としても、作品は一世代の共有する自己証明の不安と現実への困惑を分かち合う一方、国家や社会政治に縛られた個人史から、その世代を超えて中国人全体が共有し拠り所とする国民国家へ上昇しようとする。物語の前の一節に、それがまず現れる。

いつか公正で深い認識が私たちを総括してくれると信じる。そのとき初めて、私たちの世代だけの奮闘、思索、刻印、選択は意味を現す。しかしそのときには、自分たちの幼さ、誤り、限界を悔やみ、生き直すことはできないと嘆くだろう。そこには深い悲観の基礎がある。だが広大で歴史の長い国にとって、未来は結局明るい。この母体には、血統と風土と創造力があり、健やかで活発な赤子を誕生させる。病み衰えた呻きは、その歓声にかき消されるだろう。この観点からすれば、すべてはまた楽観的であるべきなのだ。(1頁)

「私たちの世代」が意味を証明する不安が「公正で深い認識」によって緩和されても、個人の精神的な浮動は「深い悲観」を残す。「だが」「すべては楽観的であるべき」だという。なぜか。張承志は母体の神話に、噴出したくてもできない力、すなわち「肉体内部の欲望」の苦悩を託す。病弱な呻きは歓喜の叫びへ、疲弊した傷ある身体は健やかな新生児へ変わるが、その前提は「長い歴史と広大な領土をもつ国」という母体への退避である。それによってこそ意味の問いは答えられる。では「最初の公正で深い認識」とは何か。この段落は一見自己完結した循環論証をなす。まず崇高な客体に「総括」を期待し、精神の不定さから残る悲観も、再び同じ客体に解決してもらう。しかしそこへの依存の動機は、もともと個人の精神、「肉体内部の欲望」の不安ではなかったか。なぜ問いかけを重ねるほど、個人の精神は語るにも値しないものへ縮むのか。「尋根が文化史の源を追うだけでなく人間と人生の曲折を剖析する営み」9なら、なぜ根そのものが人の従属する主体になるのか。なぜ主体は従属を自覚せず、過去を超克して賛歌を歌えるのか。それとも崇拝のうちに、主体は崇高な客体と一体化したのか。

文革直後に治癒を待っていた傷痕へ戻ろう。「まさに被害者の意識に浸透した、極めて真剣で悲壮な雰囲気と心情のなかで、文革後の中国文学は出発した。」10『学級担任』の張先生は「国と民に災いをもたらした四人組という害虫ども」を涙ながらに非難する一方、自分や「暗雲に覆われた状況」への根本的な反問は弱く、少なく、嘆息に流れる。『傷痕』の暁華は亡母に「あなたと私の心の傷を誰がつけたのか、永遠に忘れない」と泣き、その直後、「華主席の恩を決して忘れず、華主席を首班とする党中央に従って、党の事業へ全力を捧げる」と誓う。この奇妙な接続には、「どこへともなく消えた偉大な母を倦まず探し続ける。自分を導き守ってくれると思っていた偉大な母は、実は母ではなかった。それでも、いや、それゆえにこそ、本当の母を探し直したい」という心情がある。ではその後は本当に、「母を失った状態で作家がそれぞれの足場を探る」「母を失う時代」となったのか。11

張承志は「奔流する大河によって文学へ勇猛な衝撃を与えた」のかもしれない。だがそこに、「新しい歴史時代の姿勢と歓喜と荘厳、広い胸懐、より高い文化的知性が示された」のか。12この問いは前段末の問いとともに考えられる。興味深いのは、作品が母の比喩を、崇高な客体への服従や帰依をより強く含む父へ置き換えることだ。全篇は、河の巡礼、大学院受験、詩作を通じて彼が父を探し、その呼びかけに応じる物語とさえ言える。ただしそれは、傷痕文学やそれ以前の、政治指導者への確信と崇拝に支えられた具体的だが遠い母とは違う。民族の背骨と精神的血脈をなす河に象徴される、抽象的だが感得できる父である。母より広大でありながら、さらに個人的・感情的に主体と結びつく。

黄河よ、すべて教えてくれ。それを答案に書き、採点する老人たちを唖然とさせよう。それは答案ではなく、歌、詩、父と子の永遠の音楽となる。あの老人たちの試験紙に収まるのか、と彼は問う。不可能だ、と自ら答える。これは書けず、他人に告げるべきでもない秘密だ。お前はなんと愚かだったのか、と彼は自嘲する。あの黄河を渡ったとき、神示や特別な感覚があったのかさえ忘れている。(17頁)

秘密と神示は、この父なる精神的客体と従来の母との決定的な差を語る。父は現実を超えた高さから投影され、より抽象的で解釈の余地が大きい仕方で主体を包み込む。より崇高で、より内在的な精神の根底となるのだ。具体的対象に依存せず対象を選ぶため、現実はその根本を揺るがせにくい。選んだ対象が揺れる隙間に薄暗くなるとしても、すぐ代替を見つけて活力を取り戻す。その意味で、父はそもそも追求を駆動した「肉体内部の欲望」とほとんど隙間なく重なり、主体自身もどちらに駆られるのか判別しがたい。とりわけ青年の黄河横断を通じて讃えられる国民国家共同体は、民族精神や品格の全体的想像を構成の基盤とし、聖なる父のように崇高で私密な呼びかけを発する。それは不可避に現実へ滲み出し、あるいは主体から現実へ投影される。

「母の時代」と「母を失う時代」という区分を見直すと、確かに存在し今日まで続く父の比喩の不在に気づく。隠れた姿のためか、その崇高さが無反省な前提になったためかもしれない。いっそ後者を「父の時代」と呼べないか。「母なき足場をそれぞれ探る」動向があったとしても、母を失った後に迎えたのは、「共有され、疑われず、強烈な精神的優越感」という父だったのか。13前段で述べた滲出や投影は、次の父殺しを帯びた独白へ噴出する。

「俺は小さいころから……父親がいなかった。長いあいだ父親なんて忘れきっていた。あいつは母さんを捨てた――あのろくでなし。……ずっと願っていた。大きくて力の強い男になり、あいつを見つけ、女房と子どもの前であの顔を思い切り殴ってやる。」……小さいころから「お父さん」なんて気色の悪い言葉は言えず、自分に父親がいるべきだとも思わなかった。(16頁)

無責任な生父への罵倒だけなら、痛みと悔しさの後の自然な憎しみである。対になる、「だが俺には偉大な母がいる」「母さえいれば、一生何もかも十分だ」という言葉も同じ源をもつ。この具体的な好悪は母の時代にも通じる。彼の罵る父は、偽りで頼れない母の隠喩であり、偉大な母への称賛は「本当の母を探し直す」動機、現実に具体的な精神的支えを求める動機と同じだ。彼は母の意味での父を殺し、二度と探さないと誓う。だがこの母的な父殺しは、崇高な客体である河の、父の意味での父としての再認へと導く。

震える指でマッチを擦り、煙草に火をつけた。だが今日、お前は突然、やはり父親をもつべきだと気づき、しかもすでに一人見つけていた。煙を吐く。ああ、今日はなんとよい日だ。今日、お前は父を見つけた――それは黄河だ。彼は黙って考え、自分の感動へ沈んだ。(16頁)

「黄河の父」。長く母なる河とされた黄河を借り、彼は自分の精神的衝動と結合して、黄河の息子としての熱い崇拝へ身を投じる。行為は宗教的解釈学に似た昇華を得る。渡河の衝動は「これは俺の黄河の父が呼んでいるのだ」(21頁)となる。かつて渡れた理由は「黄河はお前の父であり、幼い息子を密かに守っている」(18頁)、「黄河の父の庇護と寛容のおかげで渡れたのだ」(22頁)となる。再度の横断も「黄河の父が再び俺を守ってくれた」(23頁)、「黄河の父よ、感謝する」(24頁)という経験となる。一方「彼女」は、母の意味の父を失い、父の意味の父をまだ見つけていない時の彼を象徴する。紅衛兵に父を殺された回想の疲労、憂鬱、うつむく震えは、彼の歯ぎしりと鮮明に対照をなす。「君に対して責任を負いたい」「彼女にはもう少し優しくするべきだ」という彼の内言は、「今日の俺はもうあの浅薄なアヒルではない」という成長宣言と通じ、父を見つけた者が自分も他人も救う趣がある。彼女の「困った、彼に恋をしたみたいだ」という思いと、横断の写真を撮る際の「緊張した笑み」は、雄々しい彼が殺された父の空白を埋めたことを示すようだ。しかしそれは精神的水準へは上がらず、小序のいう「深い悲観」は残る。その後の徐華北と彼のあいだの揺れや、「ああ、あなたたちは二人ともよい人ね」という嘆息は、彼女がなお他者を必要とする母の時代にいることを示す。彼はすでに父の崇高な呼び声を受けており、「結局これらすべては自分にとっては違う」のだ(81頁)。

結末では、「十二歳の少女は自分の岩を、華北は自分の勝利を、お前は自分の北方の河を見つけた。私たちは皆、追い求めたものを見つけた」のかもしれない(93頁)。だが精神の深層の違いは隠せない。父を殴り殺されるのを見た少女は、母の空白を埋めるため、「理想の拠り所たる岩」をなお探す(89頁)。不公正に怒る徐華北は「噛む歯」(61頁)で、信じたのに捨てられた母を殺し、芸術を「穴から跳び出す一歩」(67頁)という父にしたのかもしれない。北方の河に父の信仰を立てた彼も、「河に支配されず」「彼の思想を力強く否定する」見慣れない環境に遭う(68頁)。母を殺すことも探し続けることも、父への帰依も狂信も、一世代だけの経験ではない。今まさに、あるいはこれから青春へ入る無数の人が逃れられない生の悲歓なのだ。「彼は自分に誤り、偏激、節度のなさが少なからずあったと薄々感じながら、すべて根本的に避けられなかったとも感じる」(95頁)。黒竜江の解氷後の奔流、岡林信康の低く嗄れた歌のなかで、張承志の精神的渇望は狂舞し続ける。だが同時に、すべてを明日という新世界の暁へ溶かしてゆくようにも見える。

お前の痛みの深さを

もちろん私は理解できない

なぜ私たちは遠くなったのか

本当はずっと目の前にいたのに

そう、私は私であり

お前にはなれない

お前がそこで一人苦闘していても

私はただ黙って見つめるだけ

私たちは二人とも試されている

だがお前は私にとって誰なのか

ここからすべてが崩れるのなら

私はお前にとって誰だったのか

……

注

  1. 許子東『二十世紀中国小説を読み直す』II、香港:商務印書館、2021年、346頁。
  2. 洪子誠『中国当代文学史』北京:北京大学出版社、2010年、342頁。
  3. 李楊『文学史記述における近代性の問題』太原:陝西教育出版社、2006年、120頁。
  4. 張承志「草原の孤独な騎手と聖戦者」、梁麗芳『紅衛兵から作家へ』台北:万象、1993年、190頁。
  5. 洪子誠『中国当代文学史』、347頁。
  6. 張承志「自序」『神示の詩篇』香港:三聯書店、1990年。
  7. 張承志「北方の河」『北方の河』北京:作家出版社、2000年、1頁。以下、この作品からの引用には本文中の頁数のみを付す。
  8. 張承志『心霊史』広州:花城出版社、1991年、287頁。
  9. 王徳威「わが土、わが民――李鋭『青石澗』評」『当代小説を読む――台湾・中国大陸・香港・海外』台北:遠流、1991年、148頁。
  10. 近藤直子『狼のいる風景――八〇年代中国文学を読む』廖金球訳、人民文学出版社、2001年、64頁。
  11. 近藤直子『狼のいる風景――八〇年代中国文学を読む』、69–70頁。
  12. 王蒙「大地と青春の礼賛――『北方の河』を読んで」『文芸報』1984年第3期。
  13. アンソニー・D・スミス『グローバル化時代の民族と民族主義』龔維斌・良警宇訳、北京:中央編訳出版社、2002年、116頁。